「誓約書にサインしたから、もう逃げられない」と思っていませんか
入社のときに「研修費用は、◯年以内に退職した場合は全額返還していただきます」という書類にサインした記憶はありませんか。いざ辞めようとすると、その誓約書のことが頭をよぎって、言い出せなくなる方は少なくありません。
先にお伝えしておくと、私自身は研修費用の返還を請求された経験はありません。この記事は、法律や過去の裁判例をもとにした一般的な整理です。ただ、転職を7回経験してきた中で、「辞めます」と口にするまでの怖さや、会社に縛られているような感覚は、何度も味わってきました。誓約書を盾にされると、自分には選択肢がないように感じてしまうのも無理はないと思います。
この記事では、研修費用の返還請求がどんなときに有効になり、どんなときに無効とされやすいのか、過去の裁判例をもとに整理します。そのうえで、実際に請求された場合にどう動けばいいかもお伝えします。
なぜ会社は研修費用を返せと言うのか、労基法16条が定めていること
まず押さえておきたいのが、労働基準法第16条です。条文にはこうあります。
使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
つまり「◯年以内に辞めたら違約金として◯万円払え」というように、あらかじめ金額を決めておく契約は、法律で禁止されています。違約金という形で、労働者を会社に縛りつけることを防ぐための規定です。
ただし、誤解されやすいポイントがあります。この条文が禁止しているのは「あらかじめ違約金や賠償額を決めておく契約」です。会社が実際に支払った研修費用を「貸したお金」として扱い、一定期間内に辞めたら返してもらう、という取り決めは、条件によっては有効と判断されることがあります。
ここが、研修費用の問題をわかりにくくしている一番の理由です。「誓約書があるから必ず払わなければならない」わけでも、「誓約書があってもすべて無効」なわけでもなく、研修の中身や契約の結び方によって結論が変わります。
研修の種類で変わる「返さなくていい」可能性
過去の裁判例を見ると、判断の分かれ目になっているのは、おおよそ次のような点です。
- その研修は、会社の業務命令として受けさせられたものか、それとも本人が希望して受けたものか
- 研修の内容は、会社の業務に直結するものか、それとも辞めた後も本人の役に立つものか
- 返還を求められる金額は、会社が実際に支払った費用に限られているか
- 返還が免除されるまでの勤続期間は、不当に長くないか
新人研修・OJT費用の場合
入社後の一般的な新人研修やOJTは、会社が業務を教えるために当然行うものとみなされやすく、返還の取り決めは無効とされる傾向があります。美容室が新人指導にかかった費用の返還を求めた事案では、指導の実態は一般的な新人教育と変わらず、会社として当然行うべきものだとして、返還の取り決めが労基法16条に違反すると判断されました(サロン・ド・リリー事件、浦和地裁昭和61年5月30日判決)。
資格取得費用の場合
業務に必要な免許や資格の取得費用は、ケースによって判断が分かれます。タクシー会社が二種免許の取得費用(約20万円)の返還を求めた事案では、二種免許は辞めた後も本人が使える資格であること、2年という勤続期間も不当に長くないことなどから、返還請求が認められました(コンドル馬込交通事件、東京地裁平成20年6月4日判決)。
自動車学校が、教習指導員の資格を取った後に退職した職員に費用の返還を求めた事案でも、会社が費用を貸し付けた形になっていたとして、返還請求が認められています(勝英自動車学校事件、東京地裁令和5年10月26日判決)。
留学・MBAなど高額な研修費用の場合
海外留学やMBA取得のように、本人のキャリアにとって利益が大きい研修は、「会社から労働者への貸付」とみなされ、返還請求が有効とされやすい傾向があります。社員が希望して留学し、帰国後一定期間内に退職した場合は費用を返すという誓約書を結んでいた事案では、返還請求が認められました(長谷工コーポレーション事件、東京地裁平成9年5月26日判決)。
一方で、業務としての性格が強い留学や研修については、返還請求が認められなかった例もあります。研修中に実際に業務を行っていた事案(富士重工業事件、東京地裁平成10年3月17日判決)や、留学費用の返還の取り決めが労基法16条に違反するとされた事案(新日本証券事件、東京地裁平成10年9月25日判決)です。
まとめると、「本人の希望で、辞めた後も役立つ研修を、実費の範囲で、無理のない期間で」という条件がそろうほど、返還請求は有効とされやすくなります。逆に「会社の業務命令で、会社の業務のために、実費を超える金額で、長期間縛る」内容になるほど、無効とされやすくなります。
ただし、研修費用の返還について最高裁判所の判断は見当たらず、地裁や高裁の判断も事案ごとに分かれています。似た状況でも結論が変わることがあるので、「自分のケースは有効か無効か」を断定することはできません。気になる場合は、後で紹介する相談先に、契約書の内容を見せて確認してください。
給料から天引きされた、訴えると言われた時の対応
退職時に、最後の給料から研修費用にあたる額を天引きされるケースもあります。労働基準法第24条は「賃金は全額を支払わなければならない」と定めているため、会社が一方的に天引きすることは、この原則に反する可能性が高い行為です。本人が同意していた場合でも、その同意が本当に自由な意思によるものと言えるかが厳しく見られます。一方的に天引きされた場合は、本来受け取るはずだった賃金の支払いを求められる可能性があります。
「訴える」「裁判にする」と言われて不安になる方もいますが、研修費用の返還請求が実際に裁判まで進むことは、会社側にも手間とコストがかかるため、多くはないと言われています。また、仮に訴えられたとしても、請求の中身が労基法16条に触れるものであれば、無効と判断される可能性があります。
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なお、研修費用が貸付金として扱われている場合、その請求権には消滅時効があります。年数は契約を結んだ時期(2020年4月の民法改正の前か後か)などによって変わるため、契約書の日付とあわせて専門家に確認してください。
退職時に研修費を請求されたときの3つのステップ
「辞めるなら研修費を返して」と言われると、頭が真っ白になりますよね。でも、その場で払うかどうかを決める必要はありません。まずは次の3つを、順番に進めてみてください。
- 契約書・誓約書を確認する:いつ、どんな内容で合意したか。研修の内容、金額の内訳、返還が免除されるまでの期間が具体的に書かれているかを確認します。「一切の費用」のようにあいまいな書き方の場合は、実際にかかった費用の内訳を会社に示してもらうよう求めましょう。
- その場で支払いに応じない:口頭で「払います」と言ってしまうと、後から話し合いにくくなります。「内容を確認してから、書面で回答します」と伝えるだけで十分です。
- 一人で抱えず、第三者に相談する:総合労働相談コーナー(各都道府県の労働局)、労働組合、弁護士など、状況を整理してくれる相談先があります。天引きなど労基法違反の疑いがあるときは、労働基準監督署も相談先になります。
どうしても自分で言い出せない時の選択肢
研修費用の話を自分で切り出すのが怖い、会社と直接やり取りしたくないという場合は、退職代行サービスという選択肢もあります。
ただし、退職代行は運営形態によってできることが大きく違います。民間企業が運営するものは、基本的に「辞める意思を伝える」ところまでで、会社との交渉はできません。研修費用の返還のように、会社との話し合いが必要になりそうな場面では、交渉ができる労働組合運営、または法的な対応までできる弁護士運営のサービスを選んだほうが安心です。特に、返還を求める金額が大きい、裁判をほのめかされているといった場合は、弁護士に相談するのが確実です。
料金の目安として、帝国データバンクの調査(2025年10月)では、退職代行サービスの平均料金は約2.9万円で、民間経営は約2.25万円、弁護士法人は約4.47万円でした。研修費用の返還請求に対応できるかどうかは業者によって違うため、依頼する前に「研修費用の返還を求められている」と伝えて、対応できるか確認しておきましょう。
よくある質問
Q. 誓約書にサインしてしまいましたが、もう無効にはできませんか。
サインをしていても、内容によっては法律上無効と判断される可能性があります。サインをしたかどうかより、研修の性質や金額、期間が妥当かどうかが判断の中心になります。
Q. 最後の給料から勝手に天引きされました。取り返せますか。
本人の同意なく一方的に天引きされた場合は、賃金の全額払いの原則に反する可能性があります。天引きされた分の支払いを求められる場合があるので、労働基準監督署や専門家に相談してください。
Q. 少額なら、揉めるより払ってしまったほうが楽でしょうか。
金額や状況によって判断は分かれます。ただ、一度支払ってしまうと、後から取り戻すのは難しくなります。少額であっても、まずは契約内容を確認してから判断することをおすすめします。
Q. 労基署に相談すれば解決しますか。
労働基準監督署は、賃金の天引きなど労基法違反の疑いがある場合に相談できる窓口です。ただし、返還の取り決めが有効か無効かを判断したり、会社との交渉を代わりにしたりする機関ではありません。交渉が必要な場合は、労働組合や弁護士への相談もあわせて考えてください。
まず、落ち着いて書類を確認するところから
研修費用の返還請求は、誓約書があるかどうかだけで決まるものではありません。研修の内容、金額、期間という具体的な中身によって、法律上の判断が変わります。
請求されると、驚いて反射的に払ってしまいたくなるかもしれません。でも、まずは契約書を手元に置いて、落ち着いて内容を確認することから始めてください。一人で判断がつかないときは、総合労働相談コーナー、労働組合、弁護士など、相談できる先は複数あります。
誓約書があるからといって、我慢してその会社に居続けなければならないわけではありません。まずは状況を整理するところから、一歩を踏み出してみてください。
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